愛媛の人々は、古くから鯛のある生活を営んできました。
鯛と愛媛との関係は、どのようなものだったのか。
鯛に関係のある歴史をひもといてみましょう。

 愛媛にある縄文時代の遺跡では、明浜(現西予市)田之浜から鹿骨の釣り針、御荘(現愛南町)平城貝塚の鹿の角でつくられたヤスなどが出土しています。平城貝塚からは、さまざまな魚の骨の中にマダイの骨も含まれていました。これらには、焼いたり、煮たりした形跡が残されており、生食、焼き物、煮物として食べられたようです。つまり、縄文人も現在の私たちと同じ調理をしていたようです。
 平安時代の『延喜式』には、和泉、伊勢、志摩、三河、若狭、丹後、紀伊、讃岐、筑前、肥後から朝廷への貢ぎ物として鯛が記されています。このうち、鮮魚を奉じたのは和泉だけで、他の地方の鯛は加工されたものでした。加工品には楚割(すはやり=背開きの塩干)、きたい(=丸干)、干鯛、脯(ほしし=薄く裂いた乾肉)、甘塩(=一夜干)、塩作(=塩干)、春酢(=なれずし)、醤(=塩辛)などがありました。交通網が整備されていないので、地方からの鯛は腐ってしまうため、加工が施されていました。
 農耕に適さない宇和海沿岸では、漁業中心の生活が営まれていました。14世紀の勅撰和歌集『玉葉和歌集』には宇和海の魚を詠んだ「伊予の国宇和の郡(こおり)の魚(うお)までもわれこそはなれ世をそくうとて」があり、この地域の漁業が京の都で知られていたことがわかります。
 室町時代まで魚料理の主役は鯉でしたが、それ以降になると慶祝料理には鯛がよく用いられ、姿の美しさと味が愛されるようになります。この変化は、武士社会の台頭と大きく関係があります。ヒレにトゲが並び、固いウロコに覆われた鯛の姿を武士の鎧兜になぞらえたため、鯛は次第に「魚の王」となっていきます。
 祝いの場に鯛が登場するようになり、需要が伸びていくと、各地で鯛網が行われるようになりました。

 この時代、宇和海のイワシ漁と瀬戸内海の鯛漁は、全国有数の漁場として知られていました。数十人で網を曳く漁は、勇壮なものだったといいます。
 魚島沖(現上島町)や来島海峡(現今治市)は、「鯛」の漁場でした。特に、魚島(現・上島町)近海で捕れる鯛は「魚島鯛」として有名で、将軍家に献上するために今治藩から鯛奉行(掛け役)が来島して監視するほどでした。水揚げされた鯛は、干鯛や塩辛、からすみに加工され、幕府へ献上されました。幕府はしばしば祝宴を催したため、その席で使用するための鯛が必要となり、この地の鯛が尊ばれたのです。

 この時代になると、船の中央に活魚槽を設けて、鯛を生かしたまま運搬できる船が考案され、江戸には新鮮な鯛が集まるようになりました。
 鯛は大阪の雑魚場でも活魚として取引されています。一本釣りで漁獲された大型の鯛は淡路の魚商人が取り仕切り、「活船(いけぶね)」が用いられました。
 その日に捕れた魚を翌日の朝に魚市場に並べることを「前」といい、大阪湾、淡路島近郊、播磨沿海部がその地域となりました。この地域の鯛は、一晩魚が古くなる「一明(いちあけ)」やもう少し時間のかかる「下(しも)」となりました。

 経済的に余裕ができた町民が「ぜいたく」にあこがれたため、祝いの席で鯛を食べる習慣が広まり、鯛は珍重されていきました。
 この時代の料理書『鯛百珍』に記されている伊予和気の名物「伊予干焼鯛」は、「鯛」を酒にひたして干したもので、焼いても煮ものにしてもよいとあります。

 鯛の漁獲量は少なくて高価だったため、時代は変わっても庶民がなかなか口にできる魚ではありませんでした。食べられるのは婚礼・結納などの場でしたが、尾頭付きの鯛は祝いの場にかかせませんでした。
 幕末期、幕府の上納米を積んだ吉田丸という船が、魚島の吉田磯で沈没しました。その翌年から、この磯には春になると鯛が群がり、網を入れるとおもしろいように鯛が捕れたといいます。明治時代になると鯛網見物の船が出るようになり、大正時代には評判を聞きつけた愛媛県知事が魚島沖へ視察に訪れています。しかし、昭和になると、まったく鯛が捕れなくなりました。漁船や漁法は発達したのですが、回遊魚が減少して漁獲高は年々減少の一途をたどっています。
 手漕船から機船へと漁船も変わり、深い海に住む鯛は底引き網で漁獲されるようになりました。しかし、この漁法は海棚に棲む魚の資源枯渇につながるため、規制されることとなりました。海洋資源の逼迫に伴い、魚を捕まえる漁業から「育てる漁業」へと変化してきます。
 「鯛」の養殖が本格化したのは、昭和40年(1965)のこと。愛媛県では、昭和37年(1962)に明浜町や城辺町、津島町などでハマチとの混養が行われましたが、稚魚からの育成ではありませんでした。
 養殖が本格化するのは、鯛のエサとなるワムシというプランクトンを与えて海産稚魚育成に成功した瀬戸内海栽培漁業協会の伯方島営業所でした。昭和40年に日本初の種苗生産に成功し、真鯛養殖が全国に広がりました。瀬戸内海栽培漁業協会は研究を進め、昭和43年(1968)に稚魚16万尾の生産に成功しています。平成2年(1990)から生産第一位となっています。
 現在の鯛養殖は、配合飼料のペレット化や養殖場の環境向上を推進した結果、天然鯛と遜色のないものが生産できるようになりました。安全な環境で育てられる愛媛の「鯛」は、脂ののり具合が天然物よりも刺身に向くという調理師もいるほど、味も育成環境もすぐれたものになっています。

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