この時代、宇和海のイワシ漁と瀬戸内海の鯛漁は、全国有数の漁場として知られていました。数十人で網を曳く漁は、勇壮なものだったといいます。
魚島沖(現上島町)や来島海峡(現今治市)は、「鯛」の漁場でした。特に、魚島(現・上島町)近海で捕れる鯛は「魚島鯛」として有名で、将軍家に献上するために今治藩から鯛奉行(掛け役)が来島して監視するほどでした。水揚げされた鯛は、干鯛や塩辛、からすみに加工され、幕府へ献上されました。幕府はしばしば祝宴を催したため、その席で使用するための鯛が必要となり、この地の鯛が尊ばれたのです。
この時代になると、船の中央に活魚槽を設けて、鯛を生かしたまま運搬できる船が考案され、江戸には新鮮な鯛が集まるようになりました。
鯛は大阪の雑魚場でも活魚として取引されています。一本釣りで漁獲された大型の鯛は淡路の魚商人が取り仕切り、「活船(いけぶね)」が用いられました。
その日に捕れた魚を翌日の朝に魚市場に並べることを「前」といい、大阪湾、淡路島近郊、播磨沿海部がその地域となりました。この地域の鯛は、一晩魚が古くなる「一明(いちあけ)」やもう少し時間のかかる「下(しも)」となりました。
経済的に余裕ができた町民が「ぜいたく」にあこがれたため、祝いの席で鯛を食べる習慣が広まり、鯛は珍重されていきました。
この時代の料理書『鯛百珍』に記されている伊予和気の名物「伊予干焼鯛」は、「鯛」を酒にひたして干したもので、焼いても煮ものにしてもよいとあります。
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