南予一円でつくられる郷土料理に「伊予さつま」があります。鯛などを焼いた身に麦味噌を入れてすり鉢ですりおろし、火にかざして焼いて香ばしさを出したあと、ダシ汁を入れてのばします。その中に煮たコンニャクやネギ、ゴマ、みかんの皮のみじん切りなどの薬味を入れ、温かい麦飯にかけて食べるのです。
この料理は、宇和島藩主に嫁いだ薩摩藩主の娘が「さつま」のつくり方を教えたという伝承がありますが、薩摩藩からの嫁入りの史実はありません。確かに宇和島藩と薩摩藩の関係は強固でしたが、幕末の公武合体運動が高まって以降のことなのです。また、味噌を擦るときに、夫が妻を助けることで「佐妻」と呼ばれるようになったという説もあります。
汁がよくしみ込むよう、椀のご飯に箸で十字を書くことが、薩摩藩主・島津家の紋どころに似ているため、「さつま」と呼んだという説が当たっているのではないかと思います。
よく似ている料理に宮崎県の「冷や汁」があります。「冷や汁」は、キュウリの輪切りやミョウガなどの薬味や豆腐を入れた味噌仕立ての汁をあつあつの麦飯にかける料理です。鹿児島県にも「冷や汁」がありますが、山間部でつくられていて、ポピュラーな存在ではありません。「さつま」の名前は「薩摩」ではなく、「日向(宮崎県)」から伝わった料理に、九州を意味する「さつま」の名をつけたと思われます。
「ごはんと味噌汁」の組み合わせは戦国時代に誕生し、武士たちに重用されました。保存性に富み、携行に便利な味噌は、時間が充分にとれない戦場で、手早く食事を済ますことができるため、簡便食として多く用いられていました。冷えた味噌汁をご飯にかける料理は、江戸時代の『料理物語』をはじめ、多くの料理書に登場します。
内田康夫著『坊っちゃん殺人事件』では、主人公の浅見光彦が「さつま」を食べ、「生ぬるいご飯に冷たい味噌汁」と不満を述べていますが、別の本で作者の内田康夫は「名物に旨いものあり」と書いています。
大分県佐伯地方の郷土料理「さつま」は、宝暦十一年(一七六一)幕府の巡見使・河内善兵衛が宇和島に泊まったとき、側用人が宿の主人に教えたものが大分に広がったと伝えられます。
日向(宮崎県)の「冷や汁」は、宇和島で「さつま」と名前を変え、海路を利用する商人や漁師たちの手によって、大分県や広島県、岡山県、香川県へと伝播しました。九州と四国が海を越えて交流していたという歴史が垣間見える料理なのです。「さつま」を食べると、食文化が伝わるためには、美味しさが絶対に必要であることが実感できます。
※土井中照著『愛媛たべものの秘密』(アトラス出版)を参照しています。
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